講演会や本などで心に残った“皆さんにも聴かせたいなあ”
と思う心のビタミン剤を掲載しています



心のビタミンのページ

『お天道様は貴方をみている』

昔の人は何気無い自然現象からいろいろなことを悟った
お天道様は何もかもお見通し
私の目は2つしかない。私を見る目は無数にある。
世間はいつも貴方を見ている。

  松原泰道師法話 南無の会(平成10.1.9)から

『環境を守ろう』

日本の農業が今だめになっている
人間の都合に関わらず、真理は流れて行く
冬に新鮮な野菜がつくられる、など人間の欲望が自然の秩序を乱している
自分の地図を持ち、今自分はどこを歩いているか見定めよう

  立松和平氏 南無の会(2002.4.10)から


『地球が危ない』

お金をいのちに、経済を環境に、目先を未来に考える
 グリーンコンシューマーになろう
ダイオキシン濃度は日本が世界一(3900)アメリカ(2744)フランス(873)
ダイオキシンの根本原因はごみの焼却、焼却施設の数は日本がダントツ
 日本1893か所、アメリカ170か所、ドイツ50か所
地球温暖化の問題は食料問題でもある。食料自給率26%の日本は
 すぐに干上がってしまう
環境問題とは、経済を下げながら地球のことを考えて行くこと。

  高木善之氏(ネットワーク地球村) 講演会(6/24/2002)から


『生と死をみつめて』

誕生日には死を考えてみよう
結婚記念日にはガンを考えてみよう
生命といのちの違い、生命には閉鎖性があり、いのちには閉鎖性が無い
寿命が伸びてもいのちに輝きがなくなれば人の全体像は惨めになる

  柏木哲夫氏(阪大教授)
オムロン京都文化フォーラム記録集から


『青少年育成』

こどもたちに“溜まり場”をつくってあげよう
人という資源をつくって行くことはたいせつな行動
こどもたちに今求められることを市民から話してもらうことがたいせつ
地域づくりのために今動き出そう

  蛯名公子(渋谷区教育長)勤労青少年協会講演会(2002.10.23)


『災害発生のメカニズム』

災害のメカニズムは2種類の事象から、ひとつは外力(誘因)、もうひとつは社会の防災力(素因)
地域が持っている素因を誘因が上回れば災害になる
地震はマグニチュードが1違えばエネルギーは32倍になる
地震は大地に溜まったストレスが起こす現象
2035年プラスマイナス10年のうちに東海大地震が起こる確立が非常に高い
社会の防災力をあげるためのしくみ作り(ボランティア、市民社会づくり)がたいせつ
日本は世界2大災害抑止力の高い国、日本=憤爪面の対応、
   アメリカ=ソフト面の対応、この違いが顕著

  林春男(京都大学防災研究所教授) 損害保険協会講演会(2002.10.31)から


『森は海の恋人』

川が流れ込む海は魚介類が豊富だ。だから川は大事。
川を浄化するためには山に豊富な木が無ければならない。だから森が大事。
川の下流のことだけで考えてダムや堰をつくったら全体の
  バランスが崩れる。上流のことも考えよう。
自然界は、どこかに手を入れれば全体のバランスが崩れる。
川の流域に住むこどもたちへの教育が重要だ。こどもたちの心を揺さぶろう。 人の心が動けば自然が戻って来る。


  畠山重篤 (牡蠣の森を慕う会主宰)  アサヒビール環境文化講座(2002.11.11)から



『アメリカインディアンの教え』

こどもたちはこうして生き方を学びます。

 批判ばかり受けて育った子は
   非難ばかりします。
 敵意にみちた中で育った子は
   だれとでも戦います。
 ひやかしを受けて育った子は
   はにかみ屋になります。
 ねたみを受けて育った子は
   いつも悪いことをしているような気持ちになります。
 心が寛大な人の中で育った子は
   がまん強くなります。
 はげましを受けて育った子は
   自信を持ちます。
 ほめられる中で育った子は
   いつも感謝することを知ります。
 公明正大な中で育った子は
   正義心を持ちます。
 思いやりのある中で育った子は
   信仰心を持ちます。
 人に認めてもらえる中で育った子は
   自分を大事にします。
 仲間の愛の中で育った子は
   世界に愛を見つけます。

   作:ドロシー・ロー・ノルト 訳:吉永 宏  日本放送リスナーカードから


『おいしい野菜の話』

次のクイズの答えは全部×だそうです。いくつか、私の常識も覆されました

1.ほうれんそうや小松菜などの葉物は緑色の濃い方が体に良い。
2.本来トマトは水に浮くものである。
3.虫がつく野菜は虫がその野菜を旨いと知っているからである。
4.野菜は土に還る前は腐るものである。
5.漢方薬は西洋薬よりも副作用が少ない。
6.無農薬の種なしぶどうは安全である。
7.健康薬品やサプリメントは副作用が無い。

  河名秀郎 (ナチュラルハーモニー代表)  アサヒビール環境文化講座(2002.11.26)から


『長寿10則』

少肉多菜
少塩多酢
少糖多果
少食多噛
少煩多眠
少怒多笑
少言多行
少欲多施
少衣多浴
少車多歩
  東京港区ボランティアセンターにあった資料から:作者不詳


『あたりまえ』

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜ、
よろこばないのでしょう
あたりまえであることを
おとうさんがいる
おかあさんがいる
手が2本あって足が2本ある
行きたいところへ自分で歩いて行ける
手を伸ばせば何でも取れる
音が聞こえて声が出る
こんなしあわせはあるのでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだと笑ってすます
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝が来る
空気を胸いっぱいに吸える
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走り回れる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決して
よろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを
欠くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

  井村和清さんの文から



『慈悲の瞑想』

毎日このことばを唱えると幸せがやって来るそうです。
私が幸せでありますように
私の悩みや苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶いますように
私に悟りの光が現れますように
私が幸せでありますように
私が幸せでありますように…

私の親しい人が幸せでありますように
私の親しい人の悩みや苦しみがなくなりますように
私の親しい人の願い事が叶いますように
私の親しい人に悟りの光が現れますように
私の親しい人が幸せでありますように
私の親しい人が幸せでありますように…

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩みや苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶いますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように…

私のきらいな人々が幸せでありますように
私のきらいな人々の悩みや苦しみがなくなりますように
私のきらいな人々の願い事が叶いますように
私のきらいな人々にも悟りの光が現れますように
私のきらいな人々が幸せでありますように
私のきらいな人々が幸せでありますように…


  随筆家 江原通子さんの講演(2003.2.12南無の会)から



『バイスティックの7つの原則』

この7つの原則は、バイスティックが、ソーシャルケースワークの原則として
まとめたものです。
この7つの原則を貫いているのは、『相手の立場にたって物事を考えよう』
ということのように思います。

1.個別化の原則
利用者の抱える問題は、その人にとって唯一無二の個別的なものです。
援助者は利用者の問題状況に応じて個別的な対応をすることが必要に
  なります。

2.意図的な感情表出の原則
援助者は援助関係の中で、利用者が自分の考えや感情(肯定的な感情
も否定的な感情も)を自由に表現できるように働きかける必要があります。

3.制御された情緒関与の原則
(2)において利用者が表した感情を大切に扱うこと。つまり,援助者がそ
れらを受容的・共感的に受け止めることが求められます。

4.非審判制度の原則
援助者は利用者の言動や行動を、世間一般の価値基準や援助者自身の
価値基準から、良いとか悪いとか評価する態度を慎まなければなりません。

5.自己決定の原則
利用者の意思に基づく決定ができるように援助していくのが援助者の努め
です。そのためには、問題解決の方策についてメリットとデメリットを検討
しつつ自己決定に至る過程を一緒にたどったり、様々な選択肢を用意す
るなど、自己決定の条件整備をすることが必要になります。

6.秘密保持の原則
利用者から信頼を得るためには、援助関係の中で利用者が語った事柄が
秘密として守られることが保障されてはじめて意図的な感情表出が可能と
なるのです。

7.専門的援助関係の原則
援助者は、個人的な興味・関心から利用者に関わることを慎まなければな
りません。援助者は、常に専門職としての態度で臨まなければならないの
です。

  パソコンボランティア講座で講師をして下さった車椅子の講師からの紹介(2003.3.16)から


『オウム事件が教えてくれたもの』

地下鉄サリン事件から8年の月日がたちました。
1995年3月20日、忘れもしません。この年は阪神淡路大震災がありました。
私は、こどもたちと遊び、心のケアをする活動のために兵庫区の ちびくろ幼稚園に居ました。午前10時、みんながラジオの放送に耳を傾け、何か ただごとではない空気を感じました。そしたら、「東京の地下鉄で サリンが播き散らされ、大事件になっている」というニュース でした。周囲の方々は「こっちは自然災害やけど、東京は人災や!」 とおっしゃっていました。この事件の裁判で弁護士を担当した、遠藤 誠さんの講演からの聴きかじりです。

○オウム事件は戦後の日本社会が抱えた問題の縮図だ。宗教感や  教育の荒廃が招いたものだ。
○信者は極めて純粋、のあまり現代の社会疑念に直面した。人は人と  人の間にしか生きられないという社会が崩壊したから心に隙間ができた。
○大企業と国家権力に慣らされたブロイラー人間がのさばる社会構図  が問題だ。
○今のこどもたちに本当の青春時代は無い。
○オウムのように、若い人が多い新興宗教団体は昔は無かった。
○政治に希望が持てない社会。悪いのは政治家と官僚だ。
○家庭の中に親と子の肌のふれあいが無いのが問題だ。
○偏差値教育で、表情が無い子どもが多い。子どもらしさが無くなっている。

と分析されています。少なからずうなずける内容でした。

  1998.12 南無の会講演から(資料を整理してたら出てきました)


『あいだみつをの書から』

あいだみつを という書家がいます。有楽町にある彼の遺作を展示する美術館
は心が癒される空間です。少し感じ入ったことばをご紹介します。

●歩くから 道になる 歩かなければ 草が生える
●しあわせは いつも じぶんの こころが きめる
●アノネ がんばんばくても いいからさ 具体的に 動くことだね
●あとじゃ できねんだよなあ いまのことは いましかできぬ
●あのねぇ 自分に エンジンを かけるのは 自分自身だからね
●にんげんはねぇ 人から点数を つけられるために この世に生まれて
    きたのではないんだよ にんげんがさき 点数は後
●青春 みじかきゆえに うつくし


あいだみつをさんの書から    (2004.6.1)



『府中市社会福祉協議会の講演・自分らしい人生の幕引き から』

「自分らしい人生の幕引き」と題した講演を聴きました。   講師:井上治代(ノンフィクション作家)
“死”と“葬送”について考える講演会が東京都府中市社会福祉協議会で開かれ、生前準備をするための 講演を聴いて来ました。
○生き方にこだわった人は死に方にもこだわる。
○自分の死については学習して行くことが必要。学習すれば考え方も深まる。
○結婚式は3年も準備するが、葬式は3日間が勝負、学んでおく必要がある。
○周囲の人に自分のメッセージを書き残しておこう。
○生きているうち自分の死後のことを準備しておこう。
○戦後2回(1960年代=核家族化、1970年代=家族の多様化)家族と葬送に大きな変化があった。「家」から「個」へとなった。
○だんだん「家の葬送」から「自分らしい葬送」を志向する傾向。
○伝統的葬送の形骸化から、葬送を選択、自己決定する時代になった。
○葬儀では何もしない、という人ほど準備が必要。
○「遺言ノート」で生前準備をしておこう。


井上治代さんの講演から    (2004.9)



『勤労青少年協会、次世代育成講演会・ニートが大人に問うこと から』

「ニートが大人に問うこと」と題した講演を聴きました。   講師: 玄田有史(東京大学助教授)   
ニート(Non Employee,Education,Training)はなぜ生ずるか、現代社会と若者に与える影響を分析、大人はこのことに対してどういう行動をとったら良いか、さまざまな示唆がありました。

○「それがどんな意味を持っているか」意味という病にかかって自分を追い詰める若者が多い。
○ニート=働かない怠け者 というと当たっていない。働く意欲はあるが働けなくなる若者が多い。
○ニートの親の特徴、子どもに構いすぎるケース&親が親であることから降りるケース。
○壁びつきあたったらそこでうろうろしていると誰か助けてくれたり、チャンスが見つかったりするのに、すぐにそこから逃避してしまう。
○子どもが、やりたいこともわからないのに、やりたいことをやれ、と言われても困ってしまう。
○「これをやってはいけない」という親の価値観は伝えなければならない。
○“いい加減”でいいはずなのに“意味”や“中身”を考えてしまう。
○“ちゃんと、いい加減”に考えよう。
○極端に、“こうしなければならない”や“ああならなければならない”は苦しくなってしまう。もっとシンプルな生き方をしよう
○2つの選択肢があった時、自分はどういう方向を選ぶか、を持っているかが大切。
○大人が若者に本当のことを伝えていかなければならない。
○「ありがとう」と言われ、「嬉しい」、「もっとこうしよう」と意欲が沸くのが仕事。


玄田有史さんの講演から    (2005.10)



京都駅新幹線入り口レストラン街の食堂に貼ってあったA4の1枚から、その1

豆腐

信仰は お豆腐のようになることです
豆腐は 煮られてもよし
焼かれてもよし 揚げられてもよし
生で冷奴で ご飯の菜によし
湯豆腐で一杯 酒の肴によし
柔らかくて 老人の 病人の お気に入り
子どもや 老人 病人の お気に入り
男によし 女に良し
貧乏人によし 金持ちによし
平民的であって 気品もあり
上流へも好かれる
行儀良く切って 吸いものとなり
精進料理によし
握りつぶして味噌汁の実となり
家庭料理に向く
四時 春夏秋冬 いつでも使われ
安価であって ご馳走のひとつに数えられ
山間に都会に どこでも歓迎せられる
貴顕や 外客の招宴にも 迎えられ
簡単なる学生の自炊生活にも 喜ばれる
女は特に 豆腐のようでなければいかぬ
徹した人は 豆腐のごとく柔くて しかも形を崩さぬ
味が無いようで アジがあり
平凡に見えて 非凡。

京都駅ビル食堂街に店に貼ってあったもの(2006.1)


   
京都駅新幹線入り口レストラン街の食堂に貼ってあったA4の1枚から、その2

俗世間 つもりちがい10か条

1.高いつもりで 低いのは 教養
2.低いつもりで 高いのが 気位
3.深いつもりで 浅いのは 知識
4.浅いつもりで 深いのが 欲
5.厚いつもりで 薄いのは 人情
6.薄いつもりで 厚いのが 面の皮
7.強いつもりで 弱いのは 根性
8.弱いつもりで 強いのが 我
9.多いつもりで 少ないのは 分別
10. 少ないつもりで 多いのが 無駄

京都駅ビル食堂街に店に貼ってあったもの(2006.1)


 
私のメーリングリストに掲載された戦争に関する裁判意見陳述

本多立太郎さん(92歳)の「関西イラク派兵差止訴訟」の裁判所での意見陳述です

一 はじめに
本多立太郎、92歳、戦争体験者の一人としてこの裁判に加わりましたその動機は、
こんにちイラクに派兵されている自衛隊員にまさしく70年前の自分の姿を見、わが家
族の姿を彼らの家族に見たからであります。
        その名目はなんであれ、迷彩服を身にまとい、銃をかかえて他国におもむくのは、私
と彼らになんのかわりもない。彼らを送る家族の姿も、わが家族の見せた別れの姿に
なにもかわりはありません。われわれ日本人が国法によって二度としてはならぬと決
められたことを、一日も早くやめさせようというのが、わたくしの願いであります。
よってこの裁判に参加した次第です。

         二 戦争とは別れと死
 1.召集と別れ
私は、補充兵でしたから25歳で召集をうけ軍隊に入りました。3ヶ月教育をうけ
て、中国へ送られたのですが、以後応召二度、北千島からシベリアの抑留生活まで経
験しました。現在でも他人から、お前にとって戦争とは何だ、人生の一番盛りの時を
それに費やした戦争とは一体何だと問われれば私はこう答えます。「戦争とは、別れ
と死、それ以外に何もない。」
先ず別れがある。20年自分を育ててくれた家族、友人、知己、そのあたたかい環境
からすっぱりと切断されて、軍隊という、殺人をもって目的とする集団に放り込まれ< る。
私には幾つかの別れがありました。
私の故郷は北海道小樽ですが、当時上京して勤めておりました。昭和14年5月、父
から電報が届きました。「オメシキタスグカエレ、チチ」思わず真蒼になりました。
当時すでに大陸で戦争が始まっていました。かの南京大虐殺事件から一年半ほど後のことです。
愈々一巻の終わりだなと思いました。そして、ハッと気付いた。別れを言おう。
あの日、有楽町の辺りは雨が降っていましたが、傘はささずに大股で駆けていったの
は銀座裏の小さな喫茶店。扉に手をかけて入ろうとしたらハッと立止まった。薄暗い
店の奥に私が別れを言おうと思った相手の人が此方を向いて立っていました。向こう
も何故かギョッとしたように体を固くして近づいてきません。それはその店の娘さんでした。
私にはまだ何も言わないのに何故彼女が驚いたか、その訳が解るのです。
当時の若者が召集令状を受け取った時、真っ先にすることが一つあります。同じこと
をする。それは床屋へ行くことです。長髪の青年が先ず髪を切る。坊主頭になる。こ
れは髪を切って覚悟を決めるといった意味はあったかも知れません。私も勤め先の地
下の床屋で坊主頭になりました。相手はその頭を見て驚いた。つまりある日突然若者
が坊主頭になれば、明日は兵隊になるということを現します。
無性に喉が渇いて、低く水と呟くと、お盆にコップを載せてカタカタ言わせながら運
んできました。それをテーブルに置きました。
ペタリと座ってじっと見つめ合っていました。
20歳で上京して5年、暇さえあればここへ来て、好きなコーヒーと、好きな音楽
と、そしてこの娘さんの笑顔と、ただそれだけが貧しい青春の唯一の証だったのに、
とうとうそれまで奪われてしまうのか。このまま戦場へ行って死んでしまえば俺の一
生って一体何だったんだろう。せめて最後の歓びのために、日頃言いたいと思いなが
ら言えなかったその娘さんへの想いを言おうと思うのですが、何か胸につかえて出て
こない。向こうも同じ思いだったのかジッと見つめ合っていましたが、やがてポツリ
とおめでとう。私は素直にうんと頷きました。天皇陛下の命により天皇陛下のおん為
に命を捧げる。こんな名誉な機会はない。だからおめでとう。やがて立っていった彼
女がかけてくれた曲が私の大好きな「ボレロ」でした。とうとうその日「ボレロ」は
5回鳴り続け、その間私の背後で声を忍んで泣いていたその人の姿を今も忘れません。

 2.そして死
別れの果てに待つのは死。勿論、無数の死を見ました。或る日行軍の途中休憩になり
ました。軍隊では休憩を小休止といいます。
小休止の号令がかかって道端に腰を下ろし、戦友と話をしていました。ものの十糎
(センチ)も離れていない処でしたが、突然、彼がウッとうめいてうつ伏せに倒れま
した。吃驚して「どうした」と抱き起こしますと、弾丸は喉仏の下から入って背骨へ
抜けています。射入孔という入った孔は小さいが射出孔という出た孔は大きい。弾丸
は中の肉をえぐって出ます。勿論、真紅の血がドクドクと流れている。「しっかりせ
い」と抱き起こし、「衛生兵、衛生兵」と呼び彼の名を呼んだが、すでに即死の状態
でした。処が、彼はまだ運のいい方です。死んで運がいいというのは全く妙な言い方
ですが、彼の死んだのが、我々が中国へ渡り南京の近く、江蘇省金壇という町の近く
に兵舎を建ててそこに駐屯していた、そこへ襲撃があった。そこで死んだ。だから戦
闘が終わった後、彼の亡骸を収容し、葬式をし、遺骨を故郷へ送り返すことが出来
た。これが作戦とか討伐とかといって、隊伍を組んで大陸の奥地へ攻めていきます。
深い山の中で戦闘が始まる。戦死者が出る。出来るだけは連れて帰ってきますがどう
しても連れて帰れない時、片手の小指を一本切り取ります。用意していった木箱に入
れて、その兵と一番仲が良かった兵隊が胸に下げて持ち帰る。残った体はその名も知
れぬ山の中に埋めてきます。だから70年経った現在、まだまだ無数の、既に白骨と
なった片手の小指のない亡骸が、中国大陸の山中に埋まっています。そういう戦死者
の遺族にとって、たとえ百年経とうが戦争は終わっていない。これが戦争だということです。

三 語り部として
 1.マイナスの思い出
私は、中・小学校で戦争体験を語る時、先ず生徒に質問をします。
「おじいちゃん、おばあちゃんから戦争の話を聞いたことのある人、手を挙げてごらん」
これが意外に少ない。核家族ということもありますが、田舎のおじいさんおばあさん
と言っても余り手が挙がらない。殊におばあさんのお腹が空いたということは聞いて
も、おじいさんの戦場でどうしたというのは殆ど聞いていない。何故か。
我々戦争体験者の戦場での思い出はいわゆる負の思い出。マイナスの思い出である。
出来れば口にも筆にも出せずに胸に秘めたまま土に入りたい。そういう性質の思い出
だということです。これが立場を代えて中国の兵士の思い出はどうだろうか。
彼らは自分の誇りを込めて孫や子に、如何に戦ったかを語っているでしょう。何故な
ら彼らの戦いは自分の国を護る戦い、侵略者から自分の国、自分の村、自分の家族を
護るための戦いであり、そしてそれに勝った。孫や子に求められれば、どうして語ら
ずに居られようか。これが加害と被害の違いであります。

 2.私の告白
70年前、私は加害者の1人でした。
当時のこの国の若者の義務として、命ぜられるままに銃を執り、中国へ渡り、戦いま
した。そして、私も先ほど話をしましたように、無抵抗の捕虜を刺殺しました。例え
それを拒めば抗命罪、陸軍刑法上最も重い罪である敵前抗命罪として己の命を奪われ
るとしても、この手で他人の命を奪ったのは事実であります。私は正に殺人の罪を冒しました。
戦争だから、というのは言い訳にはなりません。
まだ、対等に戦って勝ったというなら、いささか心に許せるものがありますが、高手
小手に縛り上げて全く無抵抗の相手を、命ぜられるままに銃剣で刺殺したというのは恥です。
語り出して100回目くらいまで、この事実を口にすることは出来ませんでした。し
かし、胸の中に「お前はそれを語らなかったら、本当に自分の戦争を語ったことにな
らないのではないか」という内なる声のようなものが聞こえてきて、とうとう語ってしまいました。
これは何度語っても恥ずかしく口惜しい。
すでに90歳、この事実を胸に抱いたまま土に入らなければならないのは実に無念です。

 3.中国訪問
昨年5月、私は中国の現地を訪れ、住民の皆さんの前にこれを告白しました。正に愧
死する思いでしたが敢えて胸の塊を吐き出す気持ちで語りました。勿論、これに対す
る人々の反応を恐れるのは当然ですが、たとえ如何なる罪に問われようともという覚
悟でやっと語り終えましたが、現地の人々は意外に寛大で、暖かく私の気持ちを受け
入れてくれました。いま、私は告白してよかったと思っていますが、だからといって
罪の意識が消えたわけではありません。1人の生命は地球より重いという、その重さ
は死ぬまで私の肩から消えません。

四 平和への思いと裁判所へのお願い
私の20年、1125回にわたる講演は、たくさんの人に耳を傾けていただけました。
戦争の悲惨さに涙を流し、夫や子どもを絶対に戦争には行かせないと決意を語ってく
れた人。平和の大切さのバトンを受けて次へ伝える役をすると語られた人等、私の話
に深く感動して下さった人がたくさんおられました。
<或る教職員研修会での感想文(原文のまま)>
  「貴重なお話しありがとうございました。実際に体験された本多さんだからこ
そ、もの静かに切々と語られる口調と話の内容に引き込まれるのだと感じました。戦
後60年、しかしまるで昨日のことように確かな記憶で話される本多さんを見て、そ
の人生において戦場経験というものがいかに強烈な悪夢として植えつけられているの
かを痛感致しました。現在、小学校の教師をしていますが、子ども達の中には、「原
爆って何?」「日本で戦争あったの?」という子もいます。彼らにとって原爆投下も
太平洋戦争も、社会で学ぶ歴史の中の一つの出来事に過ぎないのでしょう。かく言う
私も、もちろん戦争を知らない世代です。どうぞいつまでもお元気で。これからも講
演がんばって下さい。」
 「自分は戦争の話を聞くこともあまりなく育ってきて、でも今、先生になって、教
えていかなければならないし、今の日本の進んでいく道は間違っている気がします。
体験していないことの話をする苦労はありますが、一生懸命自分なりにやっていきた
いと思います。今日の貴重なお話しを参考にさせていただきます。子どもらにも話で
きていけたらな、と思います。本日は貴重なお話しありがとうございました。」
教師は教師なりに、親は親なりに、子は子なりに、それぞれの立場で真剣にうけとっ
てもらえるようです。語ったものとしてはこれ以上の喜びはありません。もちろん、
政党、宗派一切関係ありませんから、自分の主義主張を押しつける積もりは全くな
い。ただ何よりも生命と平和を大切に、それを原則として語ってきました。
しかし、この間にも日本は着々と軍事国家を目指し、自衛隊はイラクにまで派兵され
るに至り、イラクでは多くの人が死んでいます。
平和と軍国主義のつばぜり合いの中で、平和を愛する人々の声が国の意思となる必要
があります。
その方法が、自衛隊のイラク派兵の違憲性を訴えるこの裁判だと思います。
私も人生の終盤に全力をかけて平和を訴えてきましたが、その結実をお願いするのは
裁判所しかありません。 私の文字通り最後の語り部としての役割は、裁判官に日本の平和についての取り組ん
でいただくことをお願いすることとなりました。
92歳まで語り続けてきた私、そして多くの人々の平和を求める思いを受けとめてい
ただいて、日本の平和に光を与えていただきますよう心よりお願い申し上げます。


私のメーリングリストに掲載された戦争に関する意見陳述から(2006.5)


 

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